非戦を選ぶ演劇人の会
「東日本大震災」被災地・宮城からの報告1
文 篠原久美子


宮城の写真1
▲この辺りになると、「倒壊した家」も見あたらない。ただ、瓦礫がある。

宮城の写真2
▲瓦礫はTVで何度も見たが、死んだ魚の生臭い匂いはTVが決して伝えないものだ。

宮城の写真3
▲線路のないところに電車が。

宮城の写真4
▲家の上に舟が倒れている。

宮城の写真5
▲車はまるで圧縮機にかけたように絡み合ってる。これをやったのが、少し遠くに静かに燦めいているあの「水」なのだと思うとゾッとする。
 4月19日(火)
 朝、横浜で9時までの早朝バイトを終え、電車に駆け込み、東京発、10時40分の新幹線に。駆け込み、とは名ばかりで、海外旅行用のスーツケースには子どもたちへの文具品が一杯に入っていて重く、気持ちは焦るがそうそうは走れない。それでもどうにか間に合った。東北行きの新幹線に乗り込むのは、スーツ姿のビジネスマンと、大きな荷物を抱えた赤十字やボランティア。みんな、どこに行くのだろう。
 上野で中山マリさんと合流。マリさんは、荷物が大変だろうと前日に宮城行きを決めて下さった。本当にありがたい。
 東北新幹線はまだ福島までしか走っていない。福島で「新幹線リレー号」という名の東北本線に乗り、仙台まで。そこから、1時間に一本しかないという高速バスに乗って登米(とめ)市に入るのだが、あいにく乗り継ぎが悪く、バスは行ったばかり。仙台駅とその付近は、一見したところ、かなり復興しているように見えたが、それでも工事中のところが多く、駅からバスターミナルまでも、工事を避けて雨の中を大回りし、バスに間に合わなかった。雨の仙台は寒かった。近くのデパートで厚着に着替え、お茶を飲んで時間を調整し、高速バスで1時間半かけて登米市に。バスが遅れたせいもあり、通常であれば、新幹線で「東京→くりこま高原」を2時間ちょっとで行くという登米市に着いたのは17時近かった。
 バス停まで車で迎えに来て下さったのは太田久美子さん。日本演劇教育連盟の会員で、宮城から東京の本部に、「南三陸町から避難している約140名の児童・生徒に文房具を寄付していただけませんか?」と呼びかけてくれた、英語教室の先生だ。当会では太田さんの呼びかけに答え、約140名分の文具をすでに送っている。今回は、分散している避難児童・生徒に太田先生が文具を届けに行った際、具体的に足りない物品を依頼された分を届けに来た。新学期がまもなく始まるということで、その前に届け、さらに必要な物を伺えればと思った。
 太田さんの車の助手席には88歳になるお母様が乗ってらして、ご挨拶を交わす。お名前から「なーちゃま」と呼ばせていただくことに。笑顔がきれいでとても可愛らしい方。
 太田さんの車で、休む間もなく、登米市登米(とめしとよま)公民館に行く。
 「ここはかなりいい方の避難所です」という公民館に入ると、玄関の狭い机で、10人くらいの小中学生が遊んだり勉強したりしている。挨拶をして中に入っていくと、TVでよく見ていた”避難所”の光景があった。
 後でマリさんが「ここはいい方の避難所と聞いていたので、少しショックを受けた。TVでは見慣れていたけれど、間近で見ると、パーティションは低くて丸見え。よくニュースで「仕切りがあってプライバシーは守られている」なんていうけれどもとてもそうは思えない。床だってとても柔らかそうには見えない。ここがいい方なんだと思ったら自分がいかに甘かったか思い知った」と言っていた。確かにパーティションは低い。腰高もない。玄関にいた中学生くらいの少女たちのことを思った。誰にとってもプライバシーの確保されない生活はストレスがたまるだろうが、思春期の少女たちを思うとことさらに切ない。
 それでもここは、すぐ近くに児童館や図書館もあり、スタッフも会館職員と地元の方達が交代で来ていて、恵まれているという。
 親切なスタッフの平井さんという方とお話ししたところ、物資の提供については夕方の班長会議でみんなに聞いて、まとめてからご連絡をいただけるとのこと。連絡を待つことにした。
 帰り際、机のところにいた子どもたちと少し話をした。みんな南三陸町から来ているとのこと。「なにか欲しい物ある?」と聞くと、男の子が「家!」と答えた。胸を針で刺された、申し訳ない。「ごめんね、家は送ってあげられないけど、東京から送れそうな物でなにか欲しいものある?」と聞き直すと、中学3年だという女の子が即座に、「勉強の道具」と答えた。「要点ぶんこ」という参考書のような本があるらしい。その本を5教科分欲しいという。あの日、学校に行っていた彼らは、鞄に入れていた文房具と教科書だけしか残っていないのだと言う。あとはみんな津波に持って行かれた。全財産が通学鞄一つの中というのはどんなことなのだろう、想像もできない、できるとはとても言えない。受験勉強がしたくても、教科書も参考書も問題集もないのだと言う。彼女の話を聞いていた隣の女の子が「私も欲しい」「○○ちゃんも欲しいんじゃない?」と言うので、避難所の中学3年生全員の、5人分を送る約束をした。(この日の内にメールと電話で都内に知らせ、4月21日、演教連の市橋さんより送付していただいた。23日にこの少女から、携帯にメールが入った。「要点ぶんこ」が届いたことに対する丁寧なお礼の言葉と、これで勉強を頑張るとのこと。そして、「私には勉強するほかに何もお礼ができないので。 みんな喜んでいました!」と…。)

 この日は、この一箇所の避難所に行っただけで陽が沈んでしまった。
 太田先生とお母様のなあちゃまと食事をし、その後、ファミレスでお茶を飲みながら、地元の市民劇に参加されている早坂さんと演劇教育に携わっている千葉さんのお話を伺った。教員でありお坊さんでもあるという千葉さんは、避難所の子どもたちとアフリカの太鼓を使ったワークショップなどをされたと言う。私達も演劇人の会であることを伝え、なにか地元の方々の活動をお手伝いできることがあれば手伝いたいと申し出る。なにをするにしても、現地の声や、地元の方々のされることに協力するという姿勢でいたい。
 そこに、班長会議の終わった登米公民館の平井さんからご連絡があった。「この避難所は割と子どもがいるので文具品はありがたいです」とのことで、明日、届ける約束をする。また、各班長から出た意見で、具体的な衛生用品を依頼されたので、それらをお送りする約束もした。(衛生用品は、4月22日、都内より送付済み)

 その夜は太田先生のお宅に泊めていただく。まだ築十年程度の新しくきれいな家だが、所々、震災の後がある。家具に開いた穴、歪みや傷。
 あの日は実家の家中の家具が倒れ、玄関に置いていた花瓶は「落ちる」のではなく、「水平に飛んでいった」そうだ。立つことはとてもできず、二人で抱き合って座っていたとのこと。その後、停電の中、ラジオの乾電池が手に入らず、情報もないまま数日を過ごしたという。

明日は早朝から、避難所をまわるということで早めに寝る。
寝る前のマリさんのストレッチを見、体の柔らかさとスタイルの良さに感嘆する。劇作家は体が硬い…。


4月20日(水)
 今日はあちこちの避難所をまわるということで、太田さんのお母様である「なあちゃん」はお留守番。なあちゃんのために、9時前に太田さんのいとこの「まちこさん」が来て下さった。まちこさんは家を津波で流され、今、弟さんの家にいるのだという。あの日、津波警報は出たが、最初は5、6メートルということだったので、お孫さんを負ぶって家より少し高台にある知り合いの家の2階にいたそうだ。ところが、やって来た津波を見て、どうも危ないんじゃないかと思われた。地形のためか、津波が左右両方から来るみたいに見えたという。津波を見てから、もっと高いところにある、知り合いの知り合いの家に避難したとのこと。津波は2回来たという人も4回来たと言う人もいた。あの日は吹雪で猛烈に寒く、その中を逃げ、停電になったために暖房器具が使えず、とにかく寒かった記憶が一番だという。翌日は「もう、一面、白銀の世界ってこういうのを言うんだと思った」と、驚くほど淡々と彼女は語った。
 88歳のなあちゃんはその話を聞きながら、目を赤くし、マリさんと私に、「自然は怒らせると恐ろしいんです…」と、深い声で呟かれた。

 9時に太田さんの家を出発。
 太田さん曰く、「昨日は震災以来初めて、地震が一度もなかった日でした。」と。
 それじゃ、この一ヶ月以上の間、毎日地震があったということかと驚く。東京も地震が多いと思っていたが、その比ではない。

 最初に昨日の登米公民館に行く。子どもたちも昨日の平井さんもいなかったが、地域のボランティアの女性たちがてきぱきと明るく働いてらした。昨日、いただいた電話の件を話し、学習帳、鉛筆、シャーペン、消しゴム、折り紙、レターセット、シャボン玉などをお渡しした。

 その後、石巻市へ。
 車で走りながら、登米市から石巻市へ入り、海岸方面に近づくごとに、街の風景が変わっていく。ブロック塀が壊れたり、道が隆起したりひび割れたりしている登米市の市街地を抜け、石巻市に入ると、道の両側一杯に片づけられ水浸しの粗大ゴミが整然と並んでいる。家具、電化製品、本、瓦礫、びしょぬれの畳などが道の両側一杯に積まれ、歩道のほとんどが粗大ゴミの置き場のようになっている。しかし、その置き方の整然としているのには驚かされる。崩れないようちゃんと紐を掛け、畳なども端を揃えてきれいに重ねられている。自治体や近隣の方々の協力がしっかりしておられるのだなと思い、頭が下がる。積み上がっている物を見ながら、見たところ家は建っているが、中はどれほど大変なことになったのだろうと思いをはせる。
 車は進む。道の両側、商店だったと分かる看板と建物はあるが、中は何もない。まるでオープンスペースのように、なにもない。津波がさらっていき、その残骸を片付けたのだろうが、一ヶ月でこの状態と思うと、この復興にはどれほどの時間がかかるのだろうと思う。この辺りになると、柱が折れ、シャッターが壊れ、倒壊した家屋も目立ってくる。また、道が灌水して通行止めになっているところもある。
 車は進み、道が海岸に向かって突き当たると、その辺りの建物で立っている物はなくなる。倒壊した家々の間を車は進み、幹線道路を折れ、ぬかるみの道を進んで避難所になっている小学校へ向かう。

 最初に訪れたのは湊小学校。
 雨は止んだがぬかるみがひどい。校庭には自衛隊の車が何台も並び、校庭にお風呂のテントと簡易トイレが建てられている。外水道に「シャンプー」と書かれた大きな紙が貼ってあったので、お湯は出るようだが、外でのシャンプーではさぞ寒いだろうと思う。
 マリさんと二人で、この二日間が寒い日で、却って良かったかも知れないと話し合った。私達は報道で地震と津波の凄まじさは見ているつもりだったが、「その日、吹雪だった」という寒さについてはあまり想像していなかった。訪れた二日間が春には珍しい、「3月上旬の寒さ」だったことは、この寒さの一端でも体感して帰れと、東北の地に言われているようだった。
 湊小学校は以前、太田先生が訪れて、必要なものを聞いて下さっていたので、地図や辞書、下敷き、学習帳、消しゴムなど、依頼されていた物をお届けした。
 ここで出会った子どもたちは元気がよく、持って行った可愛い消しゴムをマリさんが「可愛いのあるよ」と見せると「ホントだ」と寄ってきて、「俺、これ、あ、やっぱりこっち」と楽しそうに選んでいく。子どもたちのこういう姿を見るのはやはり嬉しい。
 スタッフの方々も明るく、私達が演劇人の会であることを告げると、「是非、なにかやっていただけたら嬉しい」と、積極的に話しかけてくれる。スタッフにも演劇人がいるようで、読み聞かせや朗読、イベントやワークショップなど、なにか現地の先生方やスタッフの方々と連携してやれたらというお話しをしてきた。「すぐにでもやって欲しい」というお話しだったので、何か企画できればと話をしてくる。
 ここの災害対策本部で、近隣の避難所の場所と避難者人数をまとめているので、そのリストを見せていただく。コピー機がないとのことで、三人で書き写した。
 太田さんから、この後、石巻の幾つかの避難所をまわり、女川、雄勝(おがつ)、牡鹿半島の避難所に行く予定と伺う。雄勝、牡鹿半島へは太田さんも行かれたことがないとのことで、現地を知る友人から、「支援活動をするなら一度見た方がいい」とアドバイスをされた地域とのこと。
 小学校を出るとき、この後、雄勝の方へ行くことを告げたボランティアスタッフの方から、「この先は、夕方、満潮になると灌水して道がなくなるから気をつけて」とアドバイスを受ける。

 二番目に訪れたのが石巻市の渡波(わたのは)小学校。
 湊小学校よりも小さな小学校だったが、ここに約300人、被災された方々が生活しているという。
 玄関や受付付近でボランティアスタッフの方にお会いできなかったのでそのまま入り、本部の場所や、今、先生方がいらっしゃるというランチルームの場所も、発泡スチロールのお椀と割り箸を持って歩いていた被災者の方に尋ねた。スタッフの方が少ないのだろうかとふと思う。
 ランチルームでお食事中だったにもかかわらず(すみませんでした!)、教務主任の山田晋先生が出てきて下さり、気持ち良く応対して下さった。お話を伺うと、始業式、入学式も近いが、今、教室は避難されている方々に使っていただいている。その方達に移動して下さいとはとても言えないので、青空教室で授業をされるとのこと。また、今、教育委員会にお願いしているのできっと来るとは思うけれども、今、とにかく紙がない。コピー機もないので手書きになるが、連絡事項などを書こうにも紙が不足して書けなくて困っているとのこと。色つきのものと白と両方あると嬉しいとのことで、都内に戻って用意でき次第送ると約束。そこに青山先生がいらした。山田先生から私達のことを聞くと、「送っていただけるなら、青空教室で使えるホワイトボードが欲しいです。それと、子どもたちのためのスケッチブックとクレヨン。それと、帽子も。」と、現場の先生ならではの具体的な品名が出てくる。青空教室なので、子どもたち全員に「帽子を被って」と言いたいのだが、学校の中でも、海側に家のあった子と山側にあった子では被害状況が違う。みんなに持ってきなさいとは言えないので、帽子のない子達の分を学校で用意できたらとのこと。都内に戻り次第手配して、送ることを約束する。(※1)
 また、子どもたちに配るドリルのようなものがなく、著作権の大丈夫な問題集があればとのことで、それは太田さんが引き受けて下さった。(※2)
 私達が演劇人の会であることから、なにかお役に立てることがあればと申し出ると、青山先生から「子どもたちはそういうの大好きです。もう少し落ち着きましたら、是非、お願いします。」とのこと。
 ボランティアスタッフが少ないと感じていたが、やはりまだ物資の仕分けなどが追いつかず、子どもたちが仕分けを手伝ってくれているとのこと。もっと大人数で来て、仕分け作業を手伝いたいと思った。(※3)
 お送りするの物のリストをメモし、学校を後にする。マリさん、太田さんと、先生方がとても明るくていい方々だと話し合う。子どもたちも劇やパフォーマンスが好きだということだし、大きなことでなくていいから、何かしたいねと。
 (※1 ホワイトボード、スケッチブック、クレヨン、コピー用紙(白、色付)は22日に送付済み。ただ、22日に渡波小学校に電話をしたところ、教育委員会から、青空教室は望ましくない、まずは避難している方々に移動していただき、教室を使っての授業を5月の連休明けくらいに再会する方向で、ということで、休校が決まってしまったとのこと。電話応対して下さった方が、「先生方が望んでいた形での授業はできなくなりました」とおっしゃってらしたことが印象に残った。「避難されている方々に移動して下さいとはとても言えないので、青空教室で」とおっしゃってらした山田先生の明るいお顔を思い出す。この地域に詳しい太田さんの友人の話では、被災者に移動を迫らなければ子どもたちの授業を再開できないということになってしまい、先生方が、被災者と教育委員会の板挟み状態で気の毒だとのこと。この状況で帽子はペンディングしているが、現地の先生方と連絡を取り合い、状況に合わせて必要な物を速やかに送りたいと考えている。
 ※ 26日に山田先生よりお電話があり、「こんなに早く、必要な物を届けていただいて本当に嬉しい」と喜んでいただけました。)
 (※2 太田さんが登米市近辺の書店で探して下さったが算数以外の教科で該当する物が見つからないとのことで、現在、演劇教育連盟の市橋さんと現地の先生と相談している。授業再開予定が5月に延びたため、緊急ではなくなったとのこと。)
 (※3 その後、山形から高校生のボランティアが20名来て、仕分けを下さったとのことです。)

 この後、別の避難所を廻る。車で行けばそれほど離れていない避難所だが、ここには受付だけで6人のスタッフがいらした。(たまたま集まってらしただけかも知れないので、それをもってスタッフが多いとは言えないと思うが。)「指定」避難所とのことで、物資の個人受付はしていないとのこと。「お気持ちには感謝します」と言っていただいた。教育委員会から子どもたち一人一人に文具品の入ったランドセルが支給されているし、教科書も支給済み。生活物資は自衛隊から支給されているので物資は足りているとのことだった。
 それ自体はとてもいいことで良かったと思うし、安心もする。ただ、ほんの少し離れた別の避難所で、足りない物をあれこれ伺ったばかりだったので、何か割り切れない気持ちも、同時に持った。

 そのまま女川へ。
 この辺りになると、「倒壊した家」も見あたらない。ただ、瓦礫がある。
 写真は全て女川で撮ったものだ。
 石巻は大変な状態ではあったが、余所から来た者の目には、復興の兆しがあるように見えた。女川は、一ヶ月経ってなお、この状況なのかと呆然とした。
 足元に大きな魚が死んでいた。写真を撮るために車を降りて歩いた短い距離の中で、3匹の魚を見つけた。瓦礫はTVで何度も見たが、死んだ魚の生臭い匂いはTVが決して伝えないものだ。
 線路のないところに電車が、家の上に舟が倒れている。
 車はまるで圧縮機にかけたように絡み合ってる。
 これをやったのが、少し遠くに静かに燦めいているあの「水」なのだと思うとゾッとする。
 「自然は怒らせると恐ろしいんです…」なあちゃんの言葉が蘇る。

 この瓦礫の丘の上に小学校があり、そこが避難所になっていると聞き、車を走らせる。
 そこは、大きく立派な小学校だった。約600名の方々が避難しており、やはり「指定」の避難所になっていた。物資の中継地点にもなっているということで、たくさんのスタッフの方々がいらして、パソコンもあった。驚くほど多くの物資が整然と整理され、自衛隊員がてきぱきと仕分けしている。ここから各避難所に物資を運んでいるという。壁に貼ってあったお知らせはパソコンできれいにレイアウトされ、コピーされている。子どもたちの状況を知りたいと思うも、まるで役所のように、「担当は○○の建物」「○○の校舎」と行ったり来たりさせられてしまう。「学童」という単語が耳に飛び込んで振り返ると、地元のテレビの取材だろうか、スタッフの方が、これもてきぱきと受け答えをしている。ここではトイレも普通に使えた。
 マリさんが「私達の出番はないね」と言う。受付や玄関などの様子から、確かに、その日、私達が持っていた文具の数や、私達のような小規模の物資の提供を中心にした団体には、ここではできることはないと思え、次の避難所に廻ることを優先してその場を去った。
 避難所に物資が集まり、スタッフや自衛隊の方々が大勢いらして、てきぱきと機能的に働いてらして、個人からの物資の受け付けなどの必要がないということは、避難している方々にとって、とても良いことだと思う。
 と同時に、「指定」ではなかった避難所のことを思い、また割り切れない気持ちがこみ上げてくる。
 勉強の道具がないと言った中学生…、紙がないと言っていた先生…。
 なぜなんだろう…?

 このときには、目の前の物資の山(ここから分配することが分かっていても)や、スタッフの数(避難されている方々の数も多いのだと分かっても)と、ついさっき別のところで見てきた状況が交錯し、避難所の格差ではないかと辛い気持ちになった。
 だが、今は、少し気持ちを切り替えようと考えている。
 行政や政府が行き届かないことを嘆くだけではこの国ではなにも動かない。行政や政府の気づいていないこと、勘違いしていることを指摘するのも市民の役目なら、行き届かないところでこそ動くのが、市民にできる役割だろうと思う。
 小さな団体だから、「一箇所にドッと集めて分配する」やり方ではなく(それはとても効率的なやり方だが)、一箇所づつ廻って、必要なものを聞いて手配するという、恐ろしく効率の悪いこともできる。
 A避難所の何百名分の食料、ではなく、登米公民館のIさんに頼まれた参考書、渡波中学の青山先生に頼まれたクレヨン、と顔の見える人々に今、必要な物を送ること。
 具体的に、今、やれることをやろう、と思う。

 牡鹿半島に向かう。
 牡鹿半島の避難所のリストを見ると、普通の民家に100人といった状態が記されている。実は、太田さんも、これから行く牡鹿と雄勝は行かれたことがないという。そこで私が地図を片手にナビゲーターをした。
 海岸沿いの道は危険ということで、山道を走ったが、あちこちで道路が割れている。対向車には、自衛隊の車以外、一台も会わない。道路の段差、ひび割れはかなり非道く、やがて、「関係車両以外通行止め」の看板が。これ以上進むのは危険と判断して道を戻った。
 震災の日、牡鹿半島に住む人たちが、津波に遭った後、吹雪の中を山越えしてきたという話しを、太田さんの友人のメールで知った。それがこの山なのかと思った。一ヶ月後、車でも引き返すこの道を、津波で被災した人たちが越えたのかと思うとたまらない気持ちになる。

 山道を引き返し、雄勝に向かう。
 私は地図を見ながらナビゲーションをしていた。このまま国道を行って、ファミリーマートのある信号のところを左折して…と話しながら地図と車外を見くらべ、やがて血の気が引いていった。地図にあるはずの物が、なにも、ない。道からはセンターラインさえも消え、街が消え、ただただ、瓦礫だけが続く。車の中から、言葉が消えた。
 写真にあったように、女川も瓦礫の街だった。だが、女川の瓦礫には形があった。雄勝の瓦礫には、形がない。後にマリさんが「女川には色があったけど、雄勝には色がないのよ」と言っていた。まさに色も形もない光景。写真を撮ろうという気持ちさえ起こらない。
 文字通り、「道をなくした」私達は、作業をしていた自衛隊員に聞いた。「すみません、雄勝に行きたいのですが…」。自衛隊員は答えた。「ここが雄勝です。」
 絶句した。
 じゃあここなんだ、信号があったのは。ファミマがあったのは…。
 「支援をするなら見た方がいい」と太田さんに告げた友人が、皮肉を込めてメールに書いていた「”壊滅的”と”壊滅”は違う」という言葉が頭をよぎった。

 リストによれば、雄勝にも避難所はあるはずだが、建物らしきものはまるで見あたらず、道を聞こうにも人がいない。地元の太田さんもどこだか分からないという状態のなか、マリさんの「海が右に見えれば北上できる」という言葉にハッとさせられ、太田さんがハンドルを切る。海岸線から山道に入った辺りでやっと地名の看板を見つけ、地図と合致した。
山道というのに、木々には漁の網や服が引っかかっており、木々の間にオレンジ色のブイが転がっている。海岸沿いの町で津波に遭い、木に引っかかって一命を取り留めた人がいるという話しを太田さんに伺ったが、この情景を見ていると分かる。それにしても、その方はどれほど寒かったろう…。

 満潮で灌水して道がなくなると言われた地域を避け、北上して新北上大橋の手前を西に折れ、石巻市に向かった。
 その北上大橋の東側には、全校児童108人中死者64人、行方不明10人と、学校では東日本大震災最多の犠牲者が出た大川小学校があった。通行止めになっていたが、その辺り一帯はいまだに建物の三分の一くらいは灌水しているように見えた。海岸沿いから4キロも離れているので津波の心配はないと思われていたそうで、石巻市の「ハザードマップ」にも、大川小を避難所として「利用可」としていたらしい。報道によれば、先生方は、万一の津波に備えて、裏山に避難用の階段を作れたらと話していたそうだが、その前にこの津波に襲われたという。あまりにも悲しい。太田さんのお話では、今回、津波がかなり川を遡っており、海岸付近でないところにも甚大な津波の被害があったという。

 そこからはひたすら帰り道を急いだ。途中、初めて、食事のために道の駅により、それぞれ、ラーメン、カレー、そばという定番の食事をし、宮城の農家を応援するためと野菜を買った。

 石巻から仙台までは高速道路の渋滞もあり、かなりの時間がかかった。結局、震災で電車が一部区間で動いていないため、どうしても車に頼らざるを得ない。渋滞はそのためだという。
 横浜までの終電に乗るためには、仙台で19:24の東北本線に乗らなければならなかったが、駅に着いたのは、19:12、マリさんは片道切符で来ていたので、先にみどりの窓口に走り、私は、ほとんど空に近い二人分のスーツケースを持って走りに走った。
 結局マリさんは人の並んでいたみどりの窓口を諦め、スイカで入場してなんとか二人とも最終電車に飛び乗った。
 帰りの新幹線の中でマリさんと、「この支援は長くなるね。」と話し合った。

 今回の宮城行きは、太田さんに案内していただき、被災地の現状のほんの一端を見せていただいたに過ぎないし、力の及ばないことが多いことも分かった。行きたい避難所にもたどり着けなかった。やり残したことは多い。それでも、何よりも良かったことは、現地を見、現地の人々との連携が始まったことだ。
 一過性ではない支援をこれからも続けていく、というよりも、今、本当の支援が始まったのだと思った。


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