非戦を選ぶ演劇人の会
「東日本大震災」被災地・宮城からの報告2 NEW!
文 篠原久美子


 7月7日(木)から9日(土)にかけて被災地に行って参りました。今回で五回目です。
 そう、五回目なのです。
 ご報告が遅くなっておりまして、本当に済みません!
 4月19日〜20日に初めて被災地を訪れ、その後、5月14日(土)〜15日(日)には、実行委員の釘本光さんと、彼女の劇団の矢口恵子さんの三人で、石巻の湊小学校、渡波中学校、南三陸、気仙沼の小泉中学校などを訪れました。子どもたちの前で紙芝居や読み聞かせを行ったり、避難所の方達のお話を伺って、物資を届けました。
 また、6月1日(水)の深夜バスで登米市に向かい、6月2日(木)に、戸倉小学校(校舎は旧善王寺小学校)と迫(はさま)公民館で人形劇団かわせみ座さんのご協力を得て、被災した小学校の子どもたちと避難所の方々に人形劇を楽しんでいただきました。
 6月14日(火)から16日(木)は、ジャーナリストの古居みずえに同行させていただき、福島県の飯舘村に参りました。
 (※ ガソリン代を含む交通費、宿泊費、パフォーマンスにかかる経費、送料から振り込み手数料まで、いっさいの経費と人件費は、実行委員、ご協力下さった劇団、スタッフの皆様の自費で行っています。皆様からいただきました支援金は、全て、被災地の人々を支援する物資のために使っております。)

 今回は、5月14日、15日、6月3日、そして今回の7月7日から9日の3回分のご報告を致します。
 飯舘村に関しましては、後ほど、別にご報告したいと思います。

 とはいえ、3回分のご報告ですので、なるべく簡略に、

1.被災地を訪れた目的
2 現地の様子

に絞って、ご報告したいと思います。

 なお、実際に行った支援物資の内訳や送付先につきましては、近日中に会計報告としてご報告致します。

1.目的
(1)5月14日、15日、6月2日、7月7日〜9日
 4月の訪問の際、湊小学校のスタッフの方から、「これからは子どもたちの心のケアの問題も出てくると思うので、子どもたちが楽しめるものをなにかしていただけたら」というリクエストにお答えする形で行いました。
 6月2日に関しましては、人形劇団かわせみ座さんが偶然、6月1日に一ノ関で公演があるということで、被災地に来ていただけないかとお願いし、かわせみ座さんも快く承諾してくださいました。
 また、避難所も廻り、必要な物資などを直接お伺いし、戻りましてからお送りしました。  日程と場所は下記の通りです。
●5月14日…石巻市湊小学校(紙芝居と読み聞かせ)
●5月15日…気仙沼市小泉中学校(避難所)(※偶然、その場にいた子どもたちに、読み聞かせと紙芝居をすることができました)
●訪れた避難所と被災地区…渡波小学校・中学校(避難所)、南三陸を車で走りました。
●6月2日…戸倉小学校(かわせみ座人形劇)、迫公民館(かわせみ座人形劇)
 校長先生のお話を伺い、被災した戸倉小学校の校舎を見に訪れました。
●7月7日、8日…訪れた避難所…雄勝の明神避難所・大須小学校、登米公民館(南三陸からの被災者のいる避難所)、気仙沼の階上中学校、石巻の湊小学校


2.現地の様子
●5月
 湊小学校では、10名くらいの子どもたちと、少し後ろの方で、「私も聞いてもいいですか?」と言ってこられたご年配のご婦人のために、紙芝居や、参加型の絵本などの読み聞かせをしました。東北支援のためと、お菓子と苺を宮城に入ってから購入したものを子どもたちに配りましたが、特に苺は大好評でした。人数も少なかったので丸くなって近くで行ったせいか、低学年の男の子が釘本さんの膝に甘えて寝っ転がったりと、穏やかな雰囲気の中で読み聞かせができました。読み聞かせのが終わった後も、子どもたちと話をし、絵本を配ると、みんなで選んで持って行ってくれました。
 避難所では、3月11日に津波の中を逃げた方のお話を伺いました。印象的だったのは、何もかも流され、真っ暗な山の中で過ごした日々、星がものすごく綺麗だったとおっしゃられたことや、5月2日に見た真っ直ぐな虹のことなど、自然の脅威よりは、その雄大さや美しさを語られたことでした。
 足りない物を伺うと、最初に「シーツとタオルケット」と言われました。3月11日以来、まだシーツを敷いて寝たことがないと。毛布しかないので、暑くなってきたのでタオルケットが欲しいということでした。他には、大きなサイズのTシャツが欲しいとのこと。支援物資で送られてくるのはS,M、Lが多いので、体の大きな方が困るとのこと。また、野菜不足ということで、ジャガイモなどをお送りする約束をしました。また、避難所に、本の好きな小学生がいるとのことで、何冊か小学校中高年向きの児童書をお渡ししました。
 南三陸を車で走っているときに、瓦礫の中に、喪服を着た数人の方が佇んでおられるのを目にしました。車の窓からほんの少しの間、目にとまっただけの光景なのに、胸と目にやきついてはなれません。
 南三陸は、海岸近くからいくら車で走っても、まだ壊れた家がある、まだ船があんなところに、こんなところの木まで倒れている、と、どこまでいっても被災の地が終わらないようでした。いったいあの日、津波はどこまで押し寄せ、人々はどうやって逃げたのだろうと不思議なほど、本当にどこまでも被害の爪痕がありました。
 気仙沼の小泉中学校の避難所では、この町から出ているたった一人の市議会議員という方が、被災した町を見渡せるところから、被災の様子を教えてくださいました。線路の高架が完全に崩れ落ち、丘は形を変えていました。形のある家は残っていません。確か漁協の金庫だとおっしゃったと記憶していますが、大きな鉄のかたまりが傾いて大地に刺さっていました。津波による避難訓練を何度もしていたために人的被害は少なかったそうですが、町は壊滅的な被害を被っています。
 日曜日で出かけているせいか、避難所にはあまり子どもたちはいませんでしたが、となりの小学校で、サッカーの練習前に、子どもたちが支援物資の仕分けをしているのに出会いました。その場にいらしたおとなの方達に自分たちのことを告げますと、その子どもたちの前で、急遽、読み聞かせと紙芝居をするという流れになりました。サッカーのユニフォームのままで、小学校の昇降口前に座った子どもたちは、とても熱心にお話しを聞いてくれて、最後の「エパミナンダス」という失敗ばかりの男の子と話では、声を上げて笑ってくれました。持っていたお菓子をあげ、文房具も手持ちの物を少し寄付してきました。
 終わってからも、帰ろうとする私たちの車の近くまで来て、被災した友達のことを話してくれた子もいました。

●6月2日
 かわせみ座さんは一ノ関での公演を終えて、1日に現地入り、私は1日に「unitチワワ」の稽古に出た後、夜行バスで現地に向かいました。
 2日の午前中は戸倉小学校(校舎は旧善王寺小学校)で、20分休みの間を使っての短いパフォーマンスをしました。私の絵本の読み聞かせとかわせみ座さんの人形、ロバのプラテーロ、手のひらサイズの妖精のパーン、ブランコをこぐピエロのウイと三作品。戸倉小学校では最初、希望する子どもたちだけが見る予定でしたが、校長先生がインターネットでかわせみ座さんのことを調べてくださり、そのあまりのレベルの高さに驚かれて、急遽、全校生徒と全先生で見ることにしてくださったそうです。
 人形遣いの山本由也さんと益村泉さんが操ることで、まるで生きているように見える人形たちに、子どもたちはおおはしゃぎで、パフォーマンスが終わっても、いつまでも人形達のそばにいたがっていました。
 終わると校長先生が「校長室でお茶でもいかがですか?」と誘ってくださいました。「校長室」と紙に書かれた部屋は、元は印刷室だそうで、かわせみ座のお三方(山本由也さん、益村泉さん、梶原ゆか子さん)と私と校長先生が入るだけで一杯になるような狭い部屋で、椅子も机も、普通の学校のものでした。
 転任で戸倉小学校に来られたという校長先生は、津波の速さを考え、素早く逃げられる屋上に避難すべきだと考えられたそうですが、地元の先生方は全員、「津波が来たら山に逃げろと昔から言われている」と言われたそうで、その言葉に従ったおかげで助かりましたとおっしゃっていました。それでも、これだけは分からず、津波の到達がもしももっと速かったらと思うと恐ろしいとおっしゃっていました。戸倉小学校では3月1日に新しい体育館ができて、テープカットをしたばかりだったそうです。午後、その戸倉小学校と体育館を見に行ってきました。新しいという体育館は悲しいくらいに壊れ、校舎もまだ灌水ているように見えました。子どもたちと先生方が逃げたという山を探しましたが、一番近いと思える高台でもそれなりに距離があり、この距離を低学年の子どもたちまで誘導して登られたのは大変だったに違いないと、現地を見て改めて思いました。
 夜は、登米市の迫公民館でのパフォーマンスです。登米市には南三陸からの被災者が3,000人避難しているということで、太田さんをはじめとする地元のボランティアの方々が、避難所からの送り迎えの車を出してくださり、約1時間、読み聞かせと人形劇のパフォーマンスをしました。ここでもかわせみ座さんの人形は大評判で、まるで本当に生きているような妖精達や子犬に、子どもたちは大はしゃぎし、大人達も、「まさかこんなにすごい人形だとは思ってもいなかった」と目を丸くしていました。
 また、東京に戻りましてから、現地の太田さんより、蛇田公民館の子どもたちに文房具とおもちゃが不足しているということでお送りしました。2才のお子さんが欲しがっているという車のおもちゃや小学生の男の子が欲しがっているというサッカーボールなどをお送りしましたところ、あるお子さんのお父様から、お礼のお電話をいただきました。
 「あんなに嬉しそうに遊んでいる息子を久しぶりに見た。家も職場も何もなくなってしまったけれど、この子どもの笑顔を守るために俺は頑張るんだ、と思えました」と何度もお礼をおっしゃって下さるお父様に、こちらの頭が下がりました。(※ 7月現在、このお父様は仕事も見つけられ、まもなく仮設住宅にも入られるとのことです。)

●7月
 7日に登米の太田さんと待ち合わせ、最初の訪問のときに行けなかった、雄勝の避難所に行きました。
 石巻の市街地を走るのは、4月、5月と今回の7月の三回目になりますが、来るたびに復興が進み、瓦礫が片付けられていることが分かります。久しぶりに湊小学校を訪れてみると、スタッフの方が私たちを見つけて声を掛けてくださいました。今、細菌学者の方が来て下さっていて、汚泥を綺麗にするバイオテクノロジーを提供していただけるかもしれないというお話しをされたとかで、「この石巻から、汚泥を変えていければ」と、希望に満ちた声で語っておられました。復興が、少しずつでも進んでいる様子に一緒に嬉しくなりました。
 また、避難されている方も覚えていて下さっていて、「まだ子どもたちに何もなかった頃に、地図や辞書を持ってきてくれたことが忘れられない」と言って下さいました。
 対策本部に行って、今欲しい物を伺うと、真っ先に「殺虫剤です」と返ってきました。最初のご報告でも書きましたが、津波と一緒に打ち上げられた魚が腐敗したせいか、ハエが大量発生しているとのこと。湊小学校でも、いたるところに、昔懐かしいハエ取りリボンが吊り下がっています。その他、かゆみ止め、蚊取り線香、熱中症予防のためのポカリスエットの粉末などを頼まれました。
 最初に雄勝に行ったときには、あまりにも「なにもない」ことに愕然とし、避難所を見つけることもできませんでしたが、今回は、建物や信号機などはまだ何もないけれども、大きなボードに、道しるべがいくつも出ていました。最初に訪れた明神避難所は、幹線道路から少し入った、山間の見つけにくい民家でした。これは確かに、案内板がなければ絶対に見つからないと思いました。避難所には中年からご年配の方まで、14名がいらっしゃいました。来訪の趣旨を告げて、何か欲しい物はと伺うと、リーダーの方の「嫁さん」というお返事に、一同、ドッと笑いが出ました。人数が少ないこともあり、その場にいらしたほとんどの方達とお話しができ、三人の女性の方の肩を揉ませていただきながら、色々なお話を伺いました。印象的だったのは、60代くらいの方のおっしゃった言葉でした。
 「私は今まで、どこで大変なことがあっても、「ああ、大変だな、可哀想だな」とは思うけんど、行動には移せなかったの。でも、今回、自分がこういう目にあったら、こんなにたくさんの人たちに助けられて、まだこんな処にだーれも来てくれてなかったときに、真っ先に、腕にこーんな入れ墨した、こーんな頭した若いお兄ちゃんが来てくれて、私は初め、恐かったの。そんでも、話してみればすんごく優しいの。今の若い人たちは偉いよ。優しいよ。それでね、私は思ったの。見習おうって。今度、どこかで何かあったら、行動しようって。恩返しなくっちゃって、私、思ったの。」
 肩を揉みながら、少しだけ上を向きました。

 ここではたくさんの物をリクエストしていただけました。やはり殺虫剤。そして夏のズボン、靴、夏の下着、クリアーケースなどなど。その中に、ある方が、「日記帳なんて、ぜいたくだべか」と聞いてこられました。震災以来、余った紙を集めて、心に思うことなどを書いているそうです。日記帳は断じて贅沢品ではない、日記帳が贅沢品であってはならない。そう思うと切ない気持ちになりました。

 その後、雄勝の大須小学校、登米公民館、8日には足を伸ばして気仙沼の階上中学校まで訪れましたが、今回はどこでも必ず最初に「殺虫剤」「ハエたたき」と言われました。ハエの問題は深刻です。ある避難所の方は、「夜にもハエが入ってきて、顔にたかってくるので、眠れない」とこぼされてらしたそうです。ハエ対策は急がれなくてはなりません。太田さんが、避難所にハエを入れたいために、舞台などで使われる網のような幕が良いと聞いたとのことで、寒冷紗のことをお教えしました。
 また、暑さ対策に、扇風機、タオルケットなども頼まれたが、現在の支援金残高では、数が買えないことが苦しいです。タオルケットも130枚となると、買えません。なにかよい方法がないものかと考えています。
 また、もう一つ印象的だったのは、ある避難所で、自分ではなく、小さい子どものいる親戚のために、夏のベビー服を頼んでこられた方の言葉でした。彼女は不安そうに、「夏の間に届きますか?」と聞いてきたのです。要求してからかなり長い間待たなければ手に入らないことが「普通」なのだろうかと思い、切なくなりました。そういえば、今までの支援も、お礼の電話は最初に決まって「こんなに早く送って下さって」だったことが思い出されます。

 8日の夕方から、津波で被災した大曲小学校の講堂で、再び、かわせみ座さんの人形劇の準備をしました。前回、登米でやったときの評判などを聞かれ、全校生徒350名に見せるためのパフォーマンスをして欲しいというご依頼を受けて、また、全くの無償で来て下さいました。(交通費だけは、非戦を選ぶ演劇人の会の有志の実行委員から出させていただいたが、経費も人件費も自前で来て下さいました。)
 かわせみ座の皆さんと合流し、まず講堂の掃除から始めました。舞台一番奥の大黒(色は赤でしたが)まで、泥のあとがあり、津波の大きさを思わせます。かわせみ座さんの三人と、すでにもう二週間も現地でボランティア活動をしているという舞台監督の須田さん、登米の太田さんとお手伝いの佐々木さんという青年で、拭き掃除をしました。新品の雑巾はあっという間に真っ黒に。それから舞台の仕込みをしてその日は帰りました。
 9日の本番は、私は午後から高崎で仕事で見ることができませんでしたが、相変わらず子どもたちには大評判だったようです。
 かわせみ座のみなさんには、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 今回が一番、「復興は進んでいる」と思える場所があったと思いました。気仙沼では、大きなゴミ置き場に、タイヤ、金属類、材木類、土・汚泥と綺麗に分類され、それぞれが二階建てくらいの家くらいの高さに積み上がっていました。そこに次々に、自衛隊の、あるいは民間のトラックが出入りし、新しいゴミを積み上げていきます。
 大曲小学校から海岸付近までも車で走りました。そこが元は田んぼだったのか宅地だったのかも分からないほどの泥地のなかで、大きな船と屋根が一緒に横になっていますが、そこで自衛隊と地元の方々が一緒に働いている姿を目にしました。
 太田さんが、「この状況で、自衛隊がかなりの数を撤収してしまうことが決まってしまい、この後が本当に心配です」とおっしゃっていたことが、心に残りました。被災地に自衛隊を派遣する「10万人態勢」はすでに5万人規模に縮小されています。「民需を圧迫してはならない」と言いますが、私たちのような小さな会が訪れただけでも、生活、衛生上の必需品がまだ行き渡っているとは思えない状況です。瓦礫、汚泥の処理、道路整備といったインフラさえ、まだ目に見えて不十分な状態で、はたしてそれでよいのか、軍事訓練やアメリカとの合同演習などは、被災地を撤収してすべきことなのか、瓦礫のなかを走りながら、重く深く、考えました。


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